姫路城を望む日本庭園『考古園』(2)
- 2015/08/06
- 11:17
国宝姫路城のお隣にある考古園、昨日掲載 『お屋敷の庭』 から、今日の掲載は『苗の庭』に移動します。
途中、姫路城西の丸、ワの櫓が見えました。

『苗の庭』は、庭園向けの花樹を育てるところでもあるようですが、猛暑のこの時期、咲いている花は少な目でした。
(左上)なでしこ (左下)おみなえし (右上)はまゆう (右下)スイレン

『流れの平庭』に入りました。

『夏木の庭』です。


次が『松の庭』です。庭と庭の間は竹垣で仕切られています。流れは垣の下を潜り隣の庭に連なります。


松の樹の勢い、夏空に負けません。


遠くに姫路城の天守閣が見えました。

『築山池泉の庭』です。



途中、花の少ない『花の庭』を通過、最後の『竹の庭』に来ました。
足元に笹の群れ、竹はいずれも幹の細い種類でした。

竹越しに先の 『築山池泉の庭』 の吾妻屋を覗きました。

『御屋敷の庭』に始まり、『竹の庭』まで。考古園内9つの庭を巡りました。この他に茶室もありました。
本田忠正時代元和4(1618)年に造営され、榊原政岑(吉宗の時代)が新吉原から高尾太夫を落籍し、住まわせたという西御屋敷跡に造られた『御屋敷の庭』、本格的数寄屋建築の茶室・双樹庵のある『茶の庭』、姫路城の眺めを取り入れた『流れの平庭』・『夏木の庭』・『築山池泉の庭』などの庭園群と江戸時代を偲ばせる築地塀や屋敷門、渡り廊下で結ばれた『活水軒』と『潮音斎』の佇まいが特別史跡地に相応しい歴史的景観を創り出しています。
『考古園』の愛称は、江戸時代の最後の藩主酒井家によって、この庭園の入り口付近に移設され、文武両道の振興を図った藩校『考古堂』に因んでいます。
-考古園パンフレットより-
途中、姫路城西の丸、ワの櫓が見えました。

『苗の庭』は、庭園向けの花樹を育てるところでもあるようですが、猛暑のこの時期、咲いている花は少な目でした。
(左上)なでしこ (左下)おみなえし (右上)はまゆう (右下)スイレン

『流れの平庭』に入りました。

『夏木の庭』です。


次が『松の庭』です。庭と庭の間は竹垣で仕切られています。流れは垣の下を潜り隣の庭に連なります。


松の樹の勢い、夏空に負けません。


遠くに姫路城の天守閣が見えました。

『築山池泉の庭』です。



途中、花の少ない『花の庭』を通過、最後の『竹の庭』に来ました。
足元に笹の群れ、竹はいずれも幹の細い種類でした。

竹越しに先の 『築山池泉の庭』 の吾妻屋を覗きました。

『御屋敷の庭』に始まり、『竹の庭』まで。考古園内9つの庭を巡りました。この他に茶室もありました。
本田忠正時代元和4(1618)年に造営され、榊原政岑(吉宗の時代)が新吉原から高尾太夫を落籍し、住まわせたという西御屋敷跡に造られた『御屋敷の庭』、本格的数寄屋建築の茶室・双樹庵のある『茶の庭』、姫路城の眺めを取り入れた『流れの平庭』・『夏木の庭』・『築山池泉の庭』などの庭園群と江戸時代を偲ばせる築地塀や屋敷門、渡り廊下で結ばれた『活水軒』と『潮音斎』の佇まいが特別史跡地に相応しい歴史的景観を創り出しています。
『考古園』の愛称は、江戸時代の最後の藩主酒井家によって、この庭園の入り口付近に移設され、文武両道の振興を図った藩校『考古堂』に因んでいます。
-考古園パンフレットより-
スポンサーサイト
Sponsored Link